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七代目 石川 藤八(しちだいめ いしかわ とうはち、1864年3月8日(文久4年2月1日) - 1914年(大正3年)1月19日)は豊田佐吉を支援した愛知県知多郡乙川村の庄屋、経営者である。藤八は佐吉を自宅の二階に住まわせ、力織機完成のための援助をした。藤八が6000円の資金と土地建物、佐吉が60台の力織機を準備し、乙川綿布合資会社を設立した。 ==人物像== ===松本市松と藤八=== 〔小栗照夫『豊田佐吉とトヨタ源流の男たち』〕七代目石川藤八の出自に関しては、はっきりしていない。戸籍上の父である稲生太左衛門が実父であるのか、また稲生太左衛門と養母松本ゑいはどのような関係であるのかなどは不明である。そして、藤八の生まれは戸籍にある知多郡亀崎村ではなく、尾鷲であると藤八家では言い伝えられている。松本市松は数え15歳にして石川藤八家の家督を継ぎ、七代目を名乗る。 彼は公式には石川藤八を名乗ったが、最後まで本名は松本市松のままであった。事実、私的な手紙は松本市松を使用していた。六代目藤八は隠居後も市松を補佐し、仕事は続けた。そのため先代を藤八さん、七代目を市松さんと人々が呼び習わしていたようである。 七代目以降も藤八家は男子に恵まれなかった。その結果、八代目の次三郎は西尾、九代目の岩三郎は鷲津、十代目にあたる銀三は亀崎町から養子を迎えて石川藤八家を維持した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「石川藤八 (7代目)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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